大学を目指し奈良の都に出てきた佐伯の真魚(まお)、後の空海。彼は、桓武帝による延暦13年(794年)の平安遷都の最中、突然姿を消す。その6年後、乞食坊主の姿で、故郷の讃岐に現れ、再び命賭けの修行の旅に出掛ける。時に真魚21歳。<br>延暦21年(802年)1月、富士山が大爆発。近くで修行中だった真魚は、逃げ惑う村人を避難させる。時に真魚、29歳。<br>延暦23年(804年)、真魚、32歳の年。桓武帝の命により、第十六次遣唐船の派遣が決定。遣唐留学生として参加を許され、これを機に名を空海と改める。そして、その遣唐使の中には、終生のライバルとなる最澄も加わっていた。九州を船出した翌日、4艘の遣唐船が大嵐に遭い、散り散りばらばらになる。空海が乗った船は難破船となり、34日目に福州の海岸に漂着。そして、今度は7千5百里の陸路を長安に向けて出発する。<br>長安に辿り着いた空海は、密教の原語であるサンスクリットを学ぶ。その頃、平安京では、何百巻の経典を携え、いち早く帰国した最澄を桓武帝が迎えていた。密教の頂点に立つ惠果に最後の弟子入りをした空海は、その日から密教の灌頂を受ける。それから3ヶ月、不眠不休の中、超人的な師と弟子との間で、20年はかかろうかという密教のすべての伝授が行われたのだった。<br>日本を離れ2年。いまや密教のすべてを授かった空海は、20年という遣唐留学生の禁を犯しての帰国を決意する。帝の元に空海が持ち帰った教典その他の目録が届けられ、その価値を最澄らが強く推奨したため、空海はお咎めなしとなった。<br>弘仁3年(812)、最澄との対立深まる奈良仏教界の懇請を受け、空海は京の乙訓寺で最澄と対面する。その結果、最澄は空海に密教の授受を願い、灌頂を受ける。しかしながら、密教の最後の灌頂である伝法灌頂に至る前に、最澄は叡山を去る。後にこれが、二人の密教の解釈をめぐっての対立となり、二度とあいまみえることはなかった。<br>その後、弟子を伴って旅に出た空海は、疫病に喘ぐ人々を救ったり、水害で悩む故郷讃岐の満濃池の築堤事業に力を貸したりと、身をもってその教えを広めていく。やがて、京に戻った空海は、嵯峨帝に国家安泰のための教えを与えると同時に、高野山に寺院を建立する計画に着手。時を同じくして、最澄逝去の知らせが届けられる。<br>そして、承和2年(835年)。空海は、凄絶な断食ののち、高弟たちに見守られ、入定するのだった。